檜舞台
- y-tsunooka
- 2022年1月26日
- 読了時間: 3分

昔、と言ってもそう昔ではないが30年前
前住んでた実家の近くに古扇楼という料理旅館があった。
今でもあるが、新築になっていては半田では三楼と呼ばれ
『古扇楼』『春扇楼』『福扇楼』がありました。
また専属の芸妓さんもいました。
子供の頃となりがお寿司屋さんで
近くに商店街もありました。半田の古き良き時代でした(戦前戦後ごろかな)
僕の子供の頃もその名残はありました。
夜になるとタクシーが並んで、三味線の音が聞こえて笑い声が聞こえて
たまにお相撲さんが来て(7月名古屋場所の頃)鬢付け油の匂いを嗅いでました
でもそれも20歳くらいになると聞こえなくなって・・
僕が大工仕事するようになった23歳くらい、子どもの頃
ボール遊びしていて毎日のようにボール庭に放り込んで叱られてた
子供には怖くて鬼婆のようなおかみさんだったが
大工見習いとして父とともにその古扇楼を修理する機会があった。
そしたらその鬼婆が
『偉いね〜偉いね〜』と信じられないくらいものすごく褒めてくれて
『頑張りんね!』『しっかりやるんだよ!』と。
その頃僕は大工なんてやりたくなかったもんだから
テキトーに返事してた。今思うとよくわかる。
この話をすると長くなるので檜舞台なのだけど
その向かいに芸妓の置屋があって西川流の舞踊もやっていた。
でそこも角岡建築で修理していてよく直しに行ってた。
親父も俺の気持ちを察してか『やる気があるならこい』と言われたたが
やることもないのでついて行ってた。
そこに『檜舞台』があって
(写真見たいな立派なものではなく、持ち運びのできる箱型?
しかしながら大きな一枚板で無垢柾目の大変立派なもの)
それを修理することになった
修理する前に御師匠さんに踊りを軽く見せていただいて
御師匠さんが足でその檜舞台を
(いわゆる『見得を切る』ことだと思う)
まさに魂の音だ。あえて音が鳴るように箱型、太鼓造にしてるのだと思う。
しかしそれを直せとは。
(直す理由を忘れたのだがシロアリだったか音がうまく鳴らないとかだったか)
親父もよくわかってて
『多分元には戻らんかもしれんでね』『かんなかけるでな』って御師匠には言ってた。
俺は??で仕事を進めて行ってた。
そう、長年何十年と型にハマってる箱型の檜舞台、そしてお稽古でバンバン叩かれている
厚い一枚板、一癖も二癖もある一枚板を一度外すと、その癖が蘇るのだ。
もうそうすると元の型には、案の定、はまらない。
となるとかんながけなのだが長年で赤くなった檜、お稽古の手垢というかいい艶。
とりあえず収めたが、親父も御師匠さんもご納得の様子。
僕だけ感じるその赤い部分と
かんながけした『白太(しらた)』のコントラストの違和感・・・
そう、そこはまた何十年と経てば元どうりになると。
御師匠さんは気前がよく『はい、タバコ代』と行って熨斗に包んで
(タバコ吸わないけど)たまに1万円くれた。(日当とは別に)
キップがいいというか粋というか。
今では古扇楼の古い建物もないしあの檜舞台もなくなった。
(持ち運びできるので探せばあるかも)
その古き良き建物と哲学は残したいものだ。
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